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京成電鉄の保存車たち

 東京から成田を結ぶ京成電鉄。元々は東京から成田山新勝寺への参拝客誘致を目的として建設された路線ですが、首都圏のベットタウンや、成田空港の開港後は空港アクセス路線としての性格も帯びるようになった鉄道会社です。また、千葉県や茨城県を中心に関連企業も多く抱え、東京ディズニーランドの運営会社であるオリエンタルランドの筆頭株主でもあります(売上高、知名度共に子会社の方が圧倒的ですが…)。
 今回は京成電鉄の保存車を取り上げます。とは言っても保存車は宗吾車両基地にいる4両のみとなっています。いずれも屋根の下で保存されており、状態はかなり良い印象です。

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① モハ204
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 モハ204は、京成電鉄が青砥~日暮里間の開通に合わせて導入した200形の1両です。1931年汽車会社製で、モハ200~209の計10両が製造されました。京成電鉄の当初の都心側のターミナルは押上でしたが、繁華街の浅草・上野からも離れていたこともあり、都心のターミナルを渇望していました。そこで、筑波高速度電気鉄道の所有していた免許をベースに日暮里まで延伸させ、上野の近くまで路線を延ばすことを実現しました。
 話はそれてしまいましたが、モハ200形の大きな特徴としては、側面の扉と窓配置が点対称にした点でした(dD5D5D2d)。この側面のタイプは一時の京成の特徴にもなり、他の形式にも波及していくこととなりました。走行面においても当時の車両では高出力の部類に入る120kWの主電動機を4基搭載しており、かなりの健脚な車両でした。1965年に車体の更新工事を大榮車輛行い、全金属製の車体に載せ換えられたほか、主電動機を130kWにパワーアップするなどのかなり力の入った更新工事が行われ、特急から普通まで幅広く運用に就いていました。しかし、1976~1978年にかけて子会社の新京成電鉄にモハ204含む9両が移籍し、新京成電鉄で1990年まで活躍していました。廃車後は京成の歴史の証人として保存されることとなり、車体更新頃の姿を復元して保存されることとなりました。後述のモハ3004もですが、前面のパタパタめくる行先表示版が残されており、イベントでは行先板を変更する場面を見ることができます。
 なお、余談ですが、写真の左に見切れているのは京成に残る最古の台車(ブリル社製、27-MCB-2型台車)です。これは、1921年に新造したモハ20形の台車で、晩年はレール運搬車のチ7の台車として使われていたものです。

27-MCB-2型台車
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② モハ3004
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 モハ3004は、京成電鉄が都営浅草線との相互直通運転のために導入した3000形の1両です(現在の主力である3000形は2代目)。1958年日本車輛製で、モハ3001~3014の14両が製造され、2両編成を組成していました。京成電鉄は都営浅草線への乗り入れのために、これまでの軌間であった1372㎜の馬車軌道から、1435㎜の標準軌に改軌するという、一大プロジェクトを1959年に実施しました。従って3000形は1372㎜の軌間で製造されたにもかかわらず、僅か1年で改軌をすることとなりました(車軸は改軌を考慮した構造になっていました)。1960年の乗り入れ開始に合わせて、これまでの青電塗装からクリーム色とオレンジ色の塗装に塗り替えられ、青電に対して赤電と呼ばれることとなりました。1977年に更新工事が行われ、一部の車両は運転台を撤去し、4、6、8両の編成を組成していました。しかし、冷房化が困難であることから、1991年に3700形の導入により引退となりました。廃車後は1960年の乗り入れ開始当時の状態に復元され、現在に至ります。

③ AE61
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 AE61は、京成電鉄が成田空港の開港に合わせ、空港連絡特急車両として導入したAE形の1両です(現在のAE形は2代目)。1978年東急車輛製で、AE形では最後に増備された第7編成の成田空港側の先頭車両です。なお、AE形はAirport Expressから取ったものです。
 AE形は成田空港のアクセス用特急車両として、上野~成田空港(現・東成田)間を1時間で結ぶことを目的として開発されました。当初の計画では1973年に開港予定だったため、それに間に合わせるべく6連5本のAE形が製造されましたが、反対運動等により開港が遅れることとなり、開港予定が大幅に延期して1978年の予定となりました。従って、製造された5本は宙ぶらりんの状態となってしまい、京成上野~成田間の特急に充当するなどして、お茶を濁す状態が5年ほど続くこととなりました。紆余曲折(反対派による放火で1両焼損する事件等)はありましたが、1978年に成田空港は開港し、ようやく本来の用途であるスカイライナーとしての活躍がスタートしました。塗装変更などを経て、1991年には念願の空港ターミナルビルへの乗り入れが開始されることになり、それに合わせて編成を6連7本を8連5本に組み替え、8両編成にすることとなりました(一部先頭車を中間車に改造。余剰2両は廃車)。
これにより運用本数の不足が出たため、後述のAE100形が登場し、順次AE100形を増備してAE形を置き換えていくこととなり、1993年までに引退することとなりました。走行機器はまだ比較的新しかったこともあり、3400形に転用されることとなりました。残ったAE61のみ保存されることとなりましたが、台車は3400形に転用されたため、代わりに3050形(初代)の台車を履いた状態で保存されています。

3050形の台車(KS-116台車)
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④ AE-161
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 AE161は、先述の空港ターミナルビルへの乗り入れに合わせて導入したAE100形の1両です。1993年日本車輛製で、成田空港側の先頭車両です。
 AE100形は先述のAE形の置き換え用車両として開発され、直線主体のデザインに、地下鉄乗り入れを視野に入れた前面貫通扉、リトラクタブル式の前照灯など、数々の新機軸を搭載した車両です。また、足回りには京成では初となるVVVF制御が採用された点も特筆されます。前面貫通扉は都営浅草線を通じた羽田空港と成田空港とのアクセスを視野に入れたものでしたが、結局実際に運行されることはなく、イベントのための回送でしか都営浅草線を走行することはありませんでした。
 しかし、2010年に成田スカイアクセス線が開通し、これに合わせてスカイライナーはスカイアクセス線経由、在来線では最速の160㎞/h運転を開始することとなり、AE100形はスカイライナーから引退。シティライナーに充当されていましたが、利用者低迷により運行が中止となり、AE100形も2016年に引退することとなりました。AE161のみ保存されることとなり、先述の3両の隣に新たに展示場を建設し、そこで保存されることとなりました。

リトラクタブルライト
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 京成電鉄の保存車は恵まれていない印象ではありますが、それでも、悲願の都心乗り入れ、地下鉄直通、日本初の空港連絡特急、悲願の空港ターミナル乗り入れ、と京成電鉄にとっての大きなターニングポイントに関連する車両たちが保存されており、ツボを押さえた車両選定だなと思う次第です(なんでこれ保存したんだろ?とか、なんでこれ保存しなかったのだろうというケースも無きにしも非ずですし…)。

(おまけ)
 保存車は京成ツアー主催の「宗吾車両基地見学ツアー」にて撮影しました。このイベントでは京成電鉄に在籍する全型式の展示などがなされていました。特に展示車両の行先表示は普段出さないものが多く出されており、特急金町、急行矢切などが表示されていました。
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今回はこれにて。

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by hozonsya_bus | 2021-05-30 12:00 | 保存車 | Comments(0)

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